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理性の鎧を脱ぐと真実の愛が見えてくるのか?

九州の長崎、佐賀、福岡を舞台にした生身の愛憎劇物語である。愛の条件とは何か?お金か?ルックスか?
久留米市で理容店を経営する両親のもとに生まれた石橋佳乃。博多で保険外交員として働き満たされない毎日のストレスを出会い系サイトで知り合う男で発散する日々。

長崎の田舎町で祖母に育てられた清水祐一。家柄、財産、学歴も無く近所にいる底辺の若者としてコンプレックスの塊を隠し持っている。そんな祐一でも唯一手にできる「力」が車だ。憧れのGTRを持つことが祐一の存在を証てくれる。
GTRで峠道を攻め華麗にドリフトを決める。祐一のアドレナリンが噴き出しコンプレックスを吹き飛ばしてくれる。生死を制する力を得た実感に体が震える。

湯布院で老舗旅館を経営する両親のもとに生まれたボンボンの増尾圭吾。大学生でアウディを乗り回し単細胞な脳で悪態を吐き時に弱者虐めで快感を得る。実家の財力と家柄で自分が友と呼ぶ子分を連れ回し出来損ないの自分をカモフラージュする日々。

佐賀の紳士服チェーン店に勤める真面目で大人しい馬込光代。恋愛経験がほぼ無く地味な人生を生きている。小さなアパートで器用に生きる妹と同居しているが彼女の損得計算な生き方を実は快く思っていない。

この4人が基本登場人物である。佳乃の父「石橋佳男」、祐一の祖母「清水房枝」はバイプレーヤーとして重要な役割を担っている。


光代役の深津絵里が「モントリオール映画祭最優秀女優賞」を受賞しており、また主演の妻夫木聡と深津絵里の濃厚なベッドシーンも話題となり大ヒットしている。吉田修一氏原作の同名小説「悪人」も氏のナンバーワン作品との誉も高くシナリオの優秀さが根底にある。

さて、僕のレビューでは詳細に物語を明かすことはしないのだが、これは大ヒット邦画なのである程度は触れたい。既に視聴済みの方も多いと思うからだ。
そしてこの映画が何を表現し何の問題提起をしているのかを僕の解釈でお話したい。


映画のレビューは数多あるので他のレビューも参考にして頂きたいが、共通するのが「意識高い系住人」には理解し難いストーリーってことだ。「頭が悪く非合理で感情的」意識高い系にはダメ人間のクズ人生物語なのである。
世の中にはこんなダメダメな人もいるんだねぇ。。おお怖っ。。関わんないようにしなきゃな。って思わせるのが精一杯な映画なのである。
意識高い系はとにかく1にも2にもバカが嫌いなのだ。頭の回転が遅く知能が低い感じの感情的な人は獣なのである。自分とは違う生物と思って避けている。最近はMOBキャラと呼んでいるそうだ。
一方、MOBと呼ばれる人々は1にも2にも正規ルートの地道な努力が足りない怠惰ループに自ら陥るタイプの人々だと言えよう。そのループとはこうだ。
「僕は両親&家庭環境に恵まれていない」→「僕は純朴で純真で正直者で要領が悪いから損ばかりしている」→「でも何かひとつ誰にも負けない特殊技能を持っているハズだ」の思考回路が渦巻いている。

主役の祐一が駆るGTRは正に特殊技能を発揮できる武器だ。
爆音を鳴らし峠をドリフトすることでヒーローになれるのである。勿論、意識高い系住人にはうるさい危険極まりないバカドライバーなだけだが。

一応ここで理を入れるとエモーショナル偏重で技術を磨く人間もこの世界には絶対に必要なのである。素晴らしい切れ味の包丁とか書き味世界最高の万年筆等は彼らが生み出すのだから。要は適材適所で能力を発揮するのが一番幸せである。

だが現代社会はそれすら不要となってきている。包丁は機械大量生産され切れ味も悪くない。万年筆等ほぼ誰も使わないだろう。こうなるともっと高度で想像力が必要となる音楽、芸術、運動の世界しか輝ける場所がない。チームプレーの優秀な運動選手は知能も高い傾向にあり引退後も優秀な経営者で活躍したりする。


光代は言う。

”私、私ね、本気でメール送っとたとよ。普通の人は出会い系サイトとかただの暇つぶしでする所かも知れんけど、私は本気やったと。ダサかやろ?。。。。じゃあね。。”

光代は知らないが、量らずも佳乃のことを普通の人と例えている。祐一は光代を普通の人とは違うと思う。これも量らずも普通の人に苦しめられた祐一に一筋の光として救いの手が差し伸べられたのである。


”会いたい、会いたい♪”圭吾の運転するアウディの助手席で加藤ミリヤのAitaiを幸せそうに歌い至福の佳乃が計算ずくな愛を求めている。”増尾君ってどんな子がすきなん?”佳乃の求愛は続く。

”。。。。てか、なんかニンニク臭くない?”
ウザそうに圭吾が佳乃に問う。

物語は2組の男女が織り成す「純朴(馬鹿)」と「普通(だが計算高い自己中な者)」と「傲慢(見下す)」の相容れない悲劇と悲哀を語っている。そういう映画なのだ。

傲慢に従う卑屈者。純朴を見下す普通の者。傲慢に見下される普通の者。それぞれが損得上下関係の中で甘い汁を求めているのである。そんな腐れ切った世の中で純粋に無垢にイノセントに生きる祐一と光代。出会うべくして出会った二人と言える。


”俺、光代と知り合う前に違う女(佳乃)と・・・メールで知りおうて・・・会いたいなら金払えと言われて・・・・”


映像表現で極めてユニークな烏賊(イカ)の目クローズアップからの黒目に回想シーン映像。。

車から圭吾に蹴り出された佳乃はガードレールに”ゴンッ!!”と激しくぶつかる。これも有名なシーンだ。演出的に残念なのは顔面から打ち付けた方がより薄情さと残酷さが出るのだが。。。まぁ無理からぬ演出の限界もある。

傲慢に侮辱され捨てられた佳乃。後ろを追っていた祐一が救いの手を差し伸べるがプライド高い佳乃は逆に祐一を罵りあろうことか祐一に襲われた!と叫びだす。

傲慢が普通を見下し普通が純朴を見下し罵る。これが世の暗黒面だと言わんばかりに。

祖母役の樹木希林さん演じる房枝が悪徳業者に詐欺られるプロットが必要なのか?だが、サブストーリーとして田舎独特の空気感を上手に表現している上手い演出だと思う。

で、結局この映画は何を言いたいのか?

僕の所感はこうだ。純朴な若者と純朴な女が暇つぶし程度の出会いの場で本気になり逃避行に至る動機は何なのか?を観客に問う作品だと思うのである。

「いやいや~あり得んだろう~こいつらがバカなだけでしょう?常識じゃナイナイ!」が一般的な回答だと思う。

他には「生い立ちや性格を鑑みれば理解できなくも無いが早計過ぎるし理性が無さ過ぎる。イノセントとは怖いものだねぇ」のような回答もあるだろう。

また「凄く気持ち分かる。この閉塞した時代に弱者は虐げられるだけで心から喜びを得ることが無い。祐一と光代の激情は切ないほど分かる」という回答もあるだろう。

さて、3様の回答のどれが正解なのだろうか?全て正解なのだろうか?

ここでタイトルの意味が重みを放つのである。

「悪人」とは誰のことだ?

祐一なのか?圭吾なのか?佳乃なのか?それとも誰でもない人間本性を指すのか?

人は天使と悪魔を併せ持つ。そして理性と本能を併せ持つ。立場が強いと思えば相手が大男だろうが侮辱し虐げたい者がいる。そうかと思えばどんなに卑しい者にも救いの手を差し伸べる尊い人もいる。

悪とはなんだ?単に善の裏返しなのか?無情とも呼べる純朴な若者は正しい理性や知性を学ぶことなく青年になり感情の赴くままに生きて光代に出会った。出会うのが遅かったと後悔はしたが人生とはそんなものだ。誰も出会いを正確に予測も予言もできない。内気で男知らずの光代は祐一に無垢な愛を見てしまったのだろうが、これが純粋な愛だったのかはラストで甚だ疑問に感じる方もいるだろう。

僕は祐一なりの感情で光子の幸せを願い首を絞めたのだと思う。それが光代のためだと思い。

ああ、なんと愚かしいかな。そこには愛憎が区別できない祐一がいる。佳乃を殺めた方法で光代も殺めようとするなんて。。。

激しく抵抗しない光代は絶望の先に希望を見たのであろうか?光代は最後まで祐一に純愛を見ていたのだろうか?

僕はこの映画が嫌いじゃない。何度も視聴している。そして毎回思うのだ。

人は本能に理性を被せて生きている。これをやっちゃいけない。これを言っちゃいけない。理性はダメダメのダメ出しに忙しい。常に自分と他人を比較し上下を気にする。言葉の真意をいちいち疑う。親切にされれば裏があると思う。心から幸せに笑うことがあっただろうか?そもそも笑とは弱者への嘲笑が主たる行為に当たる。「バカだねぇ~WWW」こんな感じだ。

では心から幸せに笑うとはどんな状態だろう?
それは微笑んでいる時である。

愛する人を見つめている時、君の顔は微笑んでいるハズだ。赤ちゃんや幼子を愛でる時も微笑んでいるハズだ。
祐一と光代の間に微笑みがあっただろうか?だとすれば二人の激情は愛から発したものでは無いと思うのだ。世の中に絶望した終わりの無い無関心で見下される世界からの逃避行だったのである。そう悪人達からの逃避行なのである。

じゃなんで何度も観てんの?そう思ったでしょう?(笑)

この映画には傲慢に対する怒りと純朴に対する憐れみが共存しているのである。人は傲慢への怒りと純朴への憐れみで心のバイアスを正常化できるのかも知れない。